ハニーおやじの

1996 ー 現在

お店を引き継いで20年以上。
“美味しいコーヒーで家庭を笑顔にしたい”
この想いを胸に、世界中を飛び回っています。

1996

episode 1スペシャルティコーヒ−の始まり

ハニー珈琲は、1996年、当時私のお気に入りだった自家焙煎のコーヒー豆屋から「もう店を閉じる事にした。井崎さんだったら出来ると思うので、この店を引き継いでくれないか」と言われ、二つ返事で引き受けることにしたのが始まりです。

当時は、スペシャルティコーヒ-などと云うものは全く無く、その店も問屋さんから生豆を仕入れ、ただ焙煎して売ると云うだけのお店でした。
他の店と違うことと言えば、「ハンドピック」と云う、生豆に入っている「欠点豆」を取り除くことを一生懸命にやっていることぐらいでした。
その姿を見ていたお客様からは「あんたたちは本当に頑張っとるよねぇ」と言われていましたが、自分のコーヒーの味に、どこか納得していない面もありました。

2001

episode 2猛者たちが集う
「味方塾」で武者修行

有名な外資系のコーヒー店が、続々と日本に入ってきていましたが、その当時の自分のコーヒーはと云うと、飲み易いんだけど透明感がなく、舌触りもザラついていました。

これでは勝てるはずがない、どうしたら良いだろうかと必死で考えていると、これからスペシャルティコーヒーを勉強しようとしているグループがあることを知りました。
そこで、すぐさまそのグループ「味方塾」に参加させてもらい、スペシャルティコーヒーについて勉強することが出来ることになりました。ワクワクでしたが、全く何も知らないところからだったので、ドキドキしながら初めての勉強会に行ったことを覚えています。
勉強会は、メンバーのお店を持ち回って行なっていましたので、初めて参加したのは札幌でした。初めての札幌は11月だと云うのに本当に寒く、九州とは全く違っていました。当時のメンバーは、私から見るとすごい人ばかりで、この中でやっていけるのだろうかと思いましたが、とにかく何でも吸収しようと必死で頑張ったことを覚えています。

2002

episode 3転機となった高嶺の花
「アグアリンパ」

味方塾に入って2年目のこと、2002年のブラジルのカップオブエクセレンスで優勝した「アグアリンパ」と云う農園のコーヒーを落札しようと云うことになり、オークションで、当時の最高値で落札しました。
皆、随分無理をしましたが、その価値は十分ありました。焼いてみると、それまでのブラジルとは比べ物にならないほど透明感があり、花のような香りもあり、甘くて心地良く、飲み込むのが勿体無いような、初めて体験する味だったのです。
多くのお客様からも驚嘆の声を頂き、この「アグアリンパ」は、ハニー珈琲にとって大きな転換点となりました。

※1カップ・オブ・エクセレンスその年に収穫されたコーヒーの中から最高品質(トップ・オブ・トップ)のものに与えられる名誉ある称号で、中南米を中心に各国でコンテストが行われています。

2004

episode 4COE国際審査員の
チャンス到来!

その後、味方塾はブラジルを始めとして、中米のニカラグアやエルサルバドルなどにも買い付けの幅を広げていきました。そういう中、私に2004年のブラジルのカップ・オブ・エクセレンスの審査会へ行ける機会が訪れました。

買い付けをする上で最も大事なことは「カッピング」です。
カッピングは、ただ味を見るのではなく、コーヒー自体の品質を見なければならないのですが、これが中々難しく、客感的に判断するには相当の訓練が必要です。
私たちは、毎回ひたすらカッピングの訓練を受けていたのですが、なかなか自分の中で正確な評価基準を築き上げることが出来ずにいました。
そんな中、カッピングのスキルを上げるためには、世界中から優秀なカッパーが招聘されるカップ・オブ・エクセレンスの審査会に参加して自分を鍛えることが重要ではないかと思うようになっていました。当時、カップオブエクセレンスに審査員として行くことは大変難しく、ごく限られた優秀なカッパーのみが推薦されて、ようやく招待状が来るというものでしたので、自分が行けるなどとは思ってもいなかったのですが、とうとうその機会がやってきました。しかも、ナショナル(国内の最終審査会)から参加したら勉強になるだろういう事で、国際審査会の1週間を加えて丸々2週間もカッピング三昧の機会を得ることができました。
当時、カップオブエクセレンスの審査会に参加するというのは、審査員が審査されているようなものだと聞いていました(つまり、きちんとカッピングができるかどうかを見られていて、良くなければ次からお声がかからない)ので、大変な緊張の中ブラジルに行ったことを覚えています。しかも国内審査会は全部ポルトガル語!(当たり前か)なので、何を言ってるのかさっぱり分かりません。数字すら分かりませんでしたが、幸い英語を話せるブラジル人のマルコが審査員にいたので、マルコの隣に居れば良いよ、とヘッドジャッジが言ってくれ、何とかなりました。国内審査会に変な日本人が紛れ込んだというのに、皆さん親切にしてくれ、終わった頃には何となく心が通じ合っていました。

2004

その頃、日本では…ハニーマダムが大活躍!

都合3週間ほど日本を空けることになりましたので、
留守を守っている家内が大変でした。焼き貯めもそこまでは出来ませんから、一応焙煎の仕方を教えていた家内が足らない分を焙煎していたようです。
実はこれが、ハニー珈琲の将来にとって大きなプラスになるのですが、当時は知る由もありませんでした。

2005

episode 5美味しいコーヒーを
求めて

その後、我々は順当に買い付ける国を増やしていき、エチオピア、ケニア、パプアニューギニア、ホンジュラス、コスタリカ、インドネシア、グアテマラ、パナマ、ボリビア、コロンビアと、幅を広げました。当時は競争相手もいなかったため、どの国でもトップオブトップの素晴らしいコーヒーが手に入りました。

日本のスペシャルティコーヒ-はこのようにして始まりました。
当時は、どのコーヒーもびっくりするほど美味しく「是非家庭の中で楽しんで欲しい。ぶっ飛ぶほど美味しいコーヒーなら、家庭の雰囲気を変えるほどの力があるに違いない」という思いを込めて「美味しいコーヒーを通して家庭平和に貢献する」と云うミッションが生まれました。

ハニーおやじの足跡
2002
SCAAコンファレンス(アナハイム)。これが初めての海外訪問。
2004.06
アフリカの産地、ザンビアへ。初めてのアフリカに感激。帰途、ロンドンのメルカンタ本社を訪問。
2004.10
ブラジルCOE審査会へ。ナショナル(国内審査)とインターナショナル(最終審査)両方に参加。
オブザーバーとは言え、続けて両方とも参加したのは、生産国以外ではただ一人とのこと。
2004.12
~2005.03
2005年3月ジャパンバリスタチャンピオンシップの審査員養成プログラムに参加。
準決勝の審査員も務める。
2006.04
ベスト・オブ・パナマのコンペティションの審査員としてパナマへ。
2008.05
ホンジュラス・カップオブエクセレンスの審査員として、サンペドロスーラへ。
2008.06
SCAEカンファレンスのため、コペンハーゲンへ。カッパーズコンテストに日本代表として出場。
29人中8位に入る。
2008.10
ボリビア・カップオブエクセレンスの審査員として、ボリビア・コロイコへ。
2009.05
コスタリカ・カップオブエクセレンスの審査員として、コスタリカ・サンホセへ。
COE後、タラス、ウェストバレーへ。
2010.05
エルサルバドルの、カップオブエクセレンス審査会へ。
2011.04
ニカラグア・カップオブエクセレンス。